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'''立憲政友会'''(りっけんせいゆうかい)は、[[日本]]の[[明治]]後期から[[昭和]]前期までの、[[立憲民政党]]とならぶ二大[[政党]]の1つである([[1900年]][[9月15日]] - [[1940年]][[7月16日]](正統派・統一派)/同[[7月30日]](革新派))。略称は'''政友会'''(せいゆうかい)。
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'''立憲政友会'''(りっけんせいゆうかい)は、[[戦前]]の[[日本]]で、[[立憲民政党]]とならぶ二大[[政党]]の1つ。[[1900年]]([[明治]]33年)[[9月15日]]に結成された。[[1940年]]([[昭和]]15年)[[7月16日]]に正統派・統一派が解散し、同年[[7月30日]]に革新派が解散した。略称は'''政友会'''(せいゆうかい)。
  
 
== 沿革 ==
 
== 沿革 ==
[[1900年]](明治33年)[[9月15日]]、[[超然主義]]の破綻と[[政党政治]]の必要性を感じた[[伊藤博文]]が自らの与党として組織した。伊藤自身が初代[[総裁]]となり、伊藤系[[官僚]]と[[憲政党]](旧自由党)・[[帝国党]]が中心となって創立された。政党に不信感を持っていた[[明治天皇]]は伊藤の政党結党に対して強く反対したが、伊藤は[[議会]]の中に天皇と[[国益]]を重んじる政党が必要であることを力説して了承を得る(このとき、伊藤を通じて下賜金2万円が政友会に与えられた)。10月に政友会を中心に[[第4次伊藤内閣]]を成立させる。だが、依然として超然主義を奉じる[[貴族院_(日本)|貴族院]]最大会派の[[研究会_(貴族院)|研究会]]は伊藤の入党要請を拒絶する会派決議を行ったばかりでなく、[[1901年]][[北清事変]]の軍費捻出のための増税案を他の5会派([[茶話会]]・[[朝日倶楽部]]・[[庚子会]]・[[木曜会]]・[[無所属団]])を糾合して否決、伊藤内閣を総辞職に追い込んだ。
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[[1900年]](明治33年)[[9月15日]]、[[超然主義]]の破綻と[[政党政治]]の必要性を感じた[[伊藤博文]]が自らの[[与党]]として組織した。伊藤自身が初代[[総裁]]となり、伊藤系[[官僚]]と[[憲政党]](旧自由党)・[[帝国党]]が中心となって創立された。政党に不信感を持っていた[[明治天皇]]は伊藤の政党結党に対して強く反対したが、伊藤は[[議会]]の中に天皇と[[国益]]を重んじる政党が必要であることを力説して了承を得る(このとき、伊藤を通じて下賜金2万円が政友会に与えられた)。10月に政友会を中心に[[第4次伊藤内閣]]を成立させる。だが、依然として超然主義を奉じる[[貴族院_(日本)|貴族院]]最大会派の[[研究会_(貴族院)|研究会]]は伊藤の入党要請を拒絶する会派決議を行ったばかりでなく、[[1901年]][[北清事変]]の軍費捻出のための増税案を他の5会派([[茶話会]]・[[朝日倶楽部]]・[[庚子会]]・[[木曜会]]・[[無所属団]])を糾合して否決、伊藤内閣を総辞職に追い込んだ。
  
 
次の[[第1次桂内閣]]で妥協と反対の両政策を取り、[[1902年]]の[[第7回衆議院議員総選挙|衆議院総選挙]]では190議席を獲得して過半数を制する。党内からは総裁専制との批判が起こり、翌年政党政治を嫌う[[山縣有朋]]は、伊藤を総裁から退かせるために[[枢密院 (日本)|枢密院]]議長に就任するよう推挽する(なお、この過程で桂内閣との妥協を推進した[[田健治郎]]とこれに反対した[[尾崎行雄]]<ref>のちにいったん復党して護憲運動で活躍するが、再び党幹部と対立して離党している。</ref>はそれぞれの反対派に追われる形で離党している。この内紛によって所属衆議院議員の1/3が離党・除名された)。
 
次の[[第1次桂内閣]]で妥協と反対の両政策を取り、[[1902年]]の[[第7回衆議院議員総選挙|衆議院総選挙]]では190議席を獲得して過半数を制する。党内からは総裁専制との批判が起こり、翌年政党政治を嫌う[[山縣有朋]]は、伊藤を総裁から退かせるために[[枢密院 (日本)|枢密院]]議長に就任するよう推挽する(なお、この過程で桂内閣との妥協を推進した[[田健治郎]]とこれに反対した[[尾崎行雄]]<ref>のちにいったん復党して護憲運動で活躍するが、再び党幹部と対立して離党している。</ref>はそれぞれの反対派に追われる形で離党している。この内紛によって所属衆議院議員の1/3が離党・除名された)。
  
伊藤が総裁を辞任して枢密院議長となると、同院前議長の[[西園寺公望]]が後継総裁となる。[[1904年]][[日露戦争]]では桂内閣を支持した。[[1906年]]第1次西園寺内閣には2大臣を送る。年来の主張であった[[鉄道国有化]]を実現した。つづく第2次桂内閣にも与党、第2次西園寺内閣のもとでは[[原敬]]・[[松田正久]]を中心に党勢を拡大する。第3次桂内閣に対しては[[護憲運動]]を組織して倒閣に追い込んだ([[大正政変]])。[[1913年]][[第1次山本内閣]]の与党となった。西園寺と桂が交代で政権を担当したこの時代は[[桂園時代]]と呼ばれる。
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伊藤が総裁を辞任して枢密院議長となると、同院前議長の[[西園寺公望]]が後継総裁となる。[[1904年]][[日露戦争]]では桂内閣を支持した。[[1906年]]成立の[[第1次西園寺内閣]]には2大臣を送り、年来の主張であった[[鉄道国有化]]を実現した。つづく[[第2次桂内閣]]にも与党、[[第2次西園寺内閣]]のもとでは[[原敬]]・[[松田正久]]を中心に党勢を拡大する。[[第3次桂内閣]]に対しては[[護憲運動]]を組織して倒閣に追い込み([[大正政変]])、[[1913年]]成立の[[第1次山本内閣]]の与党となった。なお、西園寺と桂が交代で政権を担当したこの時代は[[桂園時代]]と呼ばれた。
  
大正政変後、公家出身の西園寺は[[大正天皇]]から望まれていた第3次桂内閣への協力を拒否した政治的責任を取って辞表を提出した。後任には松田が望まれたが、松田が急死したために原敬が[[1914年]]に総裁となる。[[大正デモクラシー]]の波にのって成長し、[[1917年]]第一党に復帰、[[1918年]][[米騒動]]後、[[1918年]](大正7年)に原敬が首班となって、日本最初の本格的な政党内閣を組織した。
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大正政変後、公家出身の西園寺は[[大正天皇]]から望まれていた第3次桂内閣への協力を拒否した政治的責任を取って辞表を提出した。後任には松田が望まれたが、松田が急死したために原敬が[[1914年]]に総裁となる。[[大正デモクラシー]]の波にのって成長し、[[1917年]]第一党に復帰、[[1918年]][[米騒動]]後、[[1918年]]([[大正]]7年)に原敬が首班となって、日本最初の本格的な政党内閣を組織した。
  
原敬の暗殺後、急遽新総裁に迎えられた[[高橋是清]]を支持する[[横田千之助]]と、それに反対する[[床次竹二郎]]の2派に分裂、床次らは分離して[[政友本党]]を結成する。横田らは[[第二次護憲運動]]にも参加し、[[加藤高明]]護憲三派内閣に参加。
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原敬の暗殺後、急遽新総裁に迎えられた[[高橋是清]]を支持する[[横田千之助]]と、それに反対する[[床次竹二郎]]の2派に分裂、床次らは分離して[[政友本党]]を結成する。横田らは[[第二次護憲運動]]にも参加し、[[加藤高明内閣|加藤高明護憲三派内閣]]に参加。
  
[[1925年]]には元陸軍大臣[[田中義一]]が総裁となる。田中の下で政友会は次第に親軍的な保守色を帯びるようになる。1927年成立の田中内閣は[[田中外交]]と呼ばれる[[中国]]での積極政策を推進し左翼運動を弾圧するが、[[張作霖爆殺事件]]の処理を巡り退陣する。
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[[1925年]]には元陸軍大臣[[田中義一]]が総裁となる。田中の下で政友会は次第に親軍的な保守色を帯びるようになる。[[1927年]]成立の[[田中義一内閣]]は[[田中外交]]と呼ばれる[[中国]]での積極政策を推進し左翼運動を弾圧するが、[[張作霖爆殺事件]]の処理を巡り退陣する。
  
昭和に入って数年は[[立憲民政党|民政党]]と交替で政権をになったが、[[1932年]](昭和7年)、[[五・一五事件]]で[[犬養毅]]が暗殺されてからは軍部に圧迫されて衰退し、[[1936年]]の[[第19回衆議院議員総選挙|総選挙]]では総裁の[[鈴木喜三郎]]が落選するなどの大惨敗を喫した。さらに[[1939年]]に次期総裁をめぐり[[久原房之助]]と[[中島知久平]]の2派に分裂する(後述)。1940年(昭和15年)に両派とも解党して新体制運動に参加、[[大政翼賛会]]に合流した。
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昭和に入って数年は[[立憲民政党|民政党]]と交替で政権をになったが、[[1932年]](昭和7年)、[[五・一五事件]]で[[犬養毅]]が暗殺されてからは軍部に圧迫されて衰退し、[[1936年]]の[[第19回衆議院議員総選挙|総選挙]]では総裁の[[鈴木喜三郎]]が落選するなどの大惨敗を喫した。さらに[[1939年]]に次期総裁をめぐり[[久原房之助]]と[[中島知久平]]の2派に分裂する(後述)。1940年(昭和15年)に両派とも解党して[[新体制運動]]に参加、[[大政翼賛会]]に合流した。
  
 
== 政友会分裂問題と解党 ==
 
== 政友会分裂問題と解党 ==
1937年、鈴木の総裁辞任後、[[鳩山一郎]]・[[前田米蔵]]・[[島田俊雄]]・中島知久平の4人が総裁代行委員となったが、1939年[[4月30日]]中島は政友会革新同盟を結成して総裁となる。一方、中島総裁に反対する鳩山らは病床の鈴木前総裁を動かし、新たに久原房之助・[[三土忠造]]・[[芳澤謙吉]]の3人を総裁代行委員に任命した。ここに政友会は、
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1937年、鈴木の総裁辞任後、[[鳩山一郎]]・[[前田米蔵]]・[[島田俊雄]]・中島知久平の4人が総裁代行委員となったが、1939年[[4月30日]]中島は政友会革新同盟を結成して総裁となる。一方、中島総裁に反対する鳩山らは病床の鈴木前総裁を動かし、中島が革新同盟総裁に就任する2日前の[[4月28日]]新たに久原房之助・[[三土忠造]]・[[芳澤謙吉]]の3人を総裁代行委員に任命した<ref name="昭和の政党">[[粟屋憲太郎]] 著 『昭和の政党』(文庫版 昭和の歴史 第6巻)[[小学館]]、[[1988年]](昭和63年)[[11月1日]]、ISBN 4-09-401106-4、356頁 - 357頁</ref>。ここに政友会は、
*「正統派」(久原派ともいう。鳩山・久原・三土・芳沢ら)
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*「正統派」(久原派ともいう。鳩山・久原・三土・芳澤ら)
 
*「革新派」(革新同盟、中島派ともいう。中島・前田・島田・[[田邊七六]]ら)
 
*「革新派」(革新同盟、中島派ともいう。中島・前田・島田・[[田邊七六]]ら)
の2派に分裂した。正統派は久原を総裁に任命し、革新派は旧[[昭和会]]のうち[[望月圭介]]・[[山崎達之輔]]ら政友会出身者を合流させた。また、この分裂の際に正統派・革新派のどちらにも与しなかった[[金光庸夫]]・[[犬養健]]・[[太田正孝]]らは「中立派」(金光派ともいう)となり、翌[[1940年]]に発生した民政党の[[斎藤隆夫]][[除名]]問題で除名を支持して正統派内で孤立した議員が中立派に加わって「統一派」と名乗った。
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の2派に分裂した。正統派は[[5月20日]]臨時党大会を開き、鈴木前総裁指名形式で久原を総裁に任命決定し<ref name="昭和の政党"/>、革新派は旧[[昭和会]]のうち[[望月圭介]]・[[山崎達之輔]]ら政友会出身者を合流させた。また、この分裂の際に正統派・革新派のどちらにも与しなかった[[金光庸夫]]・[[犬養健]]・[[太田正孝]]らは「中立派」(金光派ともいう)となり、翌[[1940年]]に発生した民政党の[[斎藤隆夫]][[除名]]問題で除名を支持して正統派内で孤立した議員が中立派に加わって「統一派」と名乗った。
  
 
だが、同年7月16日に正統派(66名)と統一派(10名)が、7月30日には革新派(97名)が解党して大政翼賛会に合流した。
 
だが、同年7月16日に正統派(66名)と統一派(10名)が、7月30日には革新派(97名)が解党して大政翼賛会に合流した。
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なお、この時の分裂問題を大正末期の横田千之助と床次竹二郎の争いによる分裂(政友本党結党)を第1次として、これと区別するために第2次分裂問題と規定する場合がある。また、解党後の[[1943年]]に完成した『立憲政友会史』では中島を正式な第8代総裁として記述しているが、これは第2次分裂以後、党機関紙及び党史の編集部門を革新派が掌握していたためである。もちろん、今日の政治史においては中島・久原どちらか一方のみを正統な総裁と規定することは不適切とされている。
 
なお、この時の分裂問題を大正末期の横田千之助と床次竹二郎の争いによる分裂(政友本党結党)を第1次として、これと区別するために第2次分裂問題と規定する場合がある。また、解党後の[[1943年]]に完成した『立憲政友会史』では中島を正式な第8代総裁として記述しているが、これは第2次分裂以後、党機関紙及び党史の編集部門を革新派が掌握していたためである。もちろん、今日の政治史においては中島・久原どちらか一方のみを正統な総裁と規定することは不適切とされている。
  
== 歴代総裁 ==
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== 歴代立憲政友会総裁一覧 ==
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== 関連項目 ==
 
== 関連項目 ==
*[[自由党 (日本)#日本自由党 (1945-1948)|日本自由党]] - 戦後に旧政友会正統派出身者主体で結成された政党。直接の前身団体は政党解消後に旧政友会正統派の翼賛政治に批判的な議員が中心となって結成した会派・[[同交会]]である。
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*[[日本自由党 (1945-1948)|日本自由党]] - 戦後に旧政友会正統派出身者主体で結成された政党。直接の前身団体は政党解消後に旧政友会正統派の翼賛政治に批判的な議員が中心となって結成した会派・[[同交会]]である。
  
 
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2010年5月8日 (土) 20:48時点における版

立憲政友会(りっけんせいゆうかい)は、戦前日本で、立憲民政党とならぶ二大政党の1つ。1900年明治33年)9月15日に結成された。1940年昭和15年)7月16日に正統派・統一派が解散し、同年7月30日に革新派が解散した。略称は政友会(せいゆうかい)。

沿革

1900年(明治33年)9月15日超然主義の破綻と政党政治の必要性を感じた伊藤博文が自らの与党として組織した。伊藤自身が初代総裁となり、伊藤系官僚憲政党(旧自由党)・帝国党が中心となって創立された。政党に不信感を持っていた明治天皇は伊藤の政党結党に対して強く反対したが、伊藤は議会の中に天皇と国益を重んじる政党が必要であることを力説して了承を得る(このとき、伊藤を通じて下賜金2万円が政友会に与えられた)。10月に政友会を中心に第4次伊藤内閣を成立させる。だが、依然として超然主義を奉じる貴族院最大会派の研究会は伊藤の入党要請を拒絶する会派決議を行ったばかりでなく、1901年北清事変の軍費捻出のための増税案を他の5会派(茶話会朝日倶楽部庚子会木曜会無所属団)を糾合して否決、伊藤内閣を総辞職に追い込んだ。

次の第1次桂内閣で妥協と反対の両政策を取り、1902年衆議院総選挙では190議席を獲得して過半数を制する。党内からは総裁専制との批判が起こり、翌年政党政治を嫌う山縣有朋は、伊藤を総裁から退かせるために枢密院議長に就任するよう推挽する(なお、この過程で桂内閣との妥協を推進した田健治郎とこれに反対した尾崎行雄[1]はそれぞれの反対派に追われる形で離党している。この内紛によって所属衆議院議員の1/3が離党・除名された)。

伊藤が総裁を辞任して枢密院議長となると、同院前議長の西園寺公望が後継総裁となる。1904年日露戦争では桂内閣を支持した。1906年成立の第1次西園寺内閣には2大臣を送り、年来の主張であった鉄道国有化を実現した。つづく第2次桂内閣にも与党、第2次西園寺内閣のもとでは原敬松田正久を中心に党勢を拡大する。第3次桂内閣に対しては護憲運動を組織して倒閣に追い込み(大正政変)、1913年成立の第1次山本内閣の与党となった。なお、西園寺と桂が交代で政権を担当したこの時代は桂園時代と呼ばれた。

大正政変後、公家出身の西園寺は大正天皇から望まれていた第3次桂内閣への協力を拒否した政治的責任を取って辞表を提出した。後任には松田が望まれたが、松田が急死したために原敬が1914年に総裁となる。大正デモクラシーの波にのって成長し、1917年第一党に復帰、1918年米騒動後、1918年大正7年)に原敬が首班となって、日本最初の本格的な政党内閣を組織した。

原敬の暗殺後、急遽新総裁に迎えられた高橋是清を支持する横田千之助と、それに反対する床次竹二郎の2派に分裂、床次らは分離して政友本党を結成する。横田らは第二次護憲運動にも参加し、加藤高明護憲三派内閣に参加。

1925年には元陸軍大臣田中義一が総裁となる。田中の下で政友会は次第に親軍的な保守色を帯びるようになる。1927年成立の田中義一内閣田中外交と呼ばれる中国での積極政策を推進し左翼運動を弾圧するが、張作霖爆殺事件の処理を巡り退陣する。

昭和に入って数年は民政党と交替で政権をになったが、1932年(昭和7年)、五・一五事件犬養毅が暗殺されてからは軍部に圧迫されて衰退し、1936年総選挙では総裁の鈴木喜三郎が落選するなどの大惨敗を喫した。さらに1939年に次期総裁をめぐり久原房之助中島知久平の2派に分裂する(後述)。1940年(昭和15年)に両派とも解党して新体制運動に参加、大政翼賛会に合流した。

政友会分裂問題と解党

1937年、鈴木の総裁辞任後、鳩山一郎前田米蔵島田俊雄・中島知久平の4人が総裁代行委員となったが、1939年4月30日中島は政友会革新同盟を結成して総裁となる。一方、中島総裁に反対する鳩山らは病床の鈴木前総裁を動かし、中島が革新同盟総裁に就任する2日前の4月28日新たに久原房之助・三土忠造芳澤謙吉の3人を総裁代行委員に任命した[2]。ここに政友会は、

  • 「正統派」(久原派ともいう。鳩山・久原・三土・芳澤ら)
  • 「革新派」(革新同盟、中島派ともいう。中島・前田・島田・田邊七六ら)

の2派に分裂した。正統派は5月20日臨時党大会を開き、鈴木前総裁指名形式で久原を総裁に任命決定し[2]、革新派は旧昭和会のうち望月圭介山崎達之輔ら政友会出身者を合流させた。また、この分裂の際に正統派・革新派のどちらにも与しなかった金光庸夫犬養健太田正孝らは「中立派」(金光派ともいう)となり、翌1940年に発生した民政党の斎藤隆夫除名問題で除名を支持して正統派内で孤立した議員が中立派に加わって「統一派」と名乗った。

だが、同年7月16日に正統派(66名)と統一派(10名)が、7月30日には革新派(97名)が解党して大政翼賛会に合流した。

なお、この時の分裂問題を大正末期の横田千之助と床次竹二郎の争いによる分裂(政友本党結党)を第1次として、これと区別するために第2次分裂問題と規定する場合がある。また、解党後の1943年に完成した『立憲政友会史』では中島を正式な第8代総裁として記述しているが、これは第2次分裂以後、党機関紙及び党史の編集部門を革新派が掌握していたためである。もちろん、今日の政治史においては中島・久原どちらか一方のみを正統な総裁と規定することは不適切とされている。

歴代立憲政友会総裁一覧

立憲政友会総裁
総裁 在任期間
1 伊藤博文 1900年(明治33年)9月 - 1903年(明治36年)
2 西園寺公望 1903年(明治36年) - 1913年(大正2年)
3 原敬 1914年(大正3年) - 1921年(大正10年)
4 高橋是清 1921年(大正10年) - 1925年(大正14年)
5 田中義一 1925年(大正14年)4月 - 1929年(昭和4年)9月
6 犬養毅 1929年(昭和4年)10月 - 1932年(昭和7年)5月
7 鈴木喜三郎 1932年(昭和7年)5月 - 1937年(昭和12年)2月
立憲政友会総裁代行委員
総裁代行委員 在任期間
- 鳩山一郎 1937年(昭和12年)2月 - 1939年(昭和14年)4月
前田米蔵
島田俊雄
中島知久平
立憲政友会革新同盟総裁
総裁 在任期間
1 中島知久平 1939年(昭和14年)4月 - 1940年(昭和15年)7月
立憲政友会正統派総裁代行委員
総裁代行委員 在任期間
- 久原房之助 1939年(昭和14年)4月 - 1939年(昭和14年)5月
三土忠造
芳澤謙吉
立憲政友会正統派総裁
総裁 在任期間
1 久原房之助 1939年(昭和14年)5月 - 1940年(昭和15年)7月

脚注

  1. のちにいったん復党して護憲運動で活躍するが、再び党幹部と対立して離党している。
  2. 2.0 2.1 粟屋憲太郎 著 『昭和の政党』(文庫版 昭和の歴史 第6巻)小学館1988年(昭和63年)11月1日ISBN 4-09-401106-4、356頁 - 357頁

関連項目

  • 日本自由党 - 戦後に旧政友会正統派出身者主体で結成された政党。直接の前身団体は政党解消後に旧政友会正統派の翼賛政治に批判的な議員が中心となって結成した会派・同交会である。